よい指導者には、いったいどんなことが求められるでしょうか?
・身体が柔軟である
・ヨガのポーズが上手にできる
・知識が豊富である
・教え方がうまい など
どれも大事な要素です。
身体の動きやヨガポーズに関しては、指導者自身が熟知しているのは必須です。
言葉の表現の豊かさや話し方なども分かりやすさには欠かせません。
先日、こんな話をする人がいました。
知識も技術も素晴らしく、経験も豊富な医療者がいました。
「これは○○にいいから」
「こうしたら△△に効くから」
「あなたのためだから」
そういいます。
患者さん本人は、拒んでいます。
それが薬や治療法だったり、必要な介護だとしても、不安や恐怖をぬぐえない患者さんは拒みます。
しかし、その人は手を抑え、身体拘束も辞さない勢いです。
その人は本当によい医療者ですか?
と問われたのです。
尊厳
祖母が他界する直前に入院した時のことを思い出しました。
食べるのが大好きな祖母が、「食べられなくなった」と自覚して、自分から病院に行きました。
すでに95歳でしたから、ある程度は覚悟していたようです。
入院するとみるみる弱り、小さくなっていきました。
「喉を詰まらせては危ないから」と食事の経口摂取が控えられ、
「点滴や酸素チューブを外したら危ないから」と手をベッドに縛りつけられました。
確かに命に係わるかもしれません。
しかし、本人が望まないことはどんなに「あなたのため」と言われても納得がいきません。
徐々に意識が混濁しながらも、祖母はずっと束帯をほどこうと腕を動かし続けていました。
祖母にとって本当によい最期だったのだろうか、と今でも考えることがあります。
先が見えていることに変わりがないなら、帯をほどいてあげてもよかったのではないか、食べれないとしても好きなものを目の前に並べてあげられるように家に戻ってもよかったのではないだろうか、と。
少しでも命を長らえるのには必要なことなのでしょうが、本人の望み、意思が尊重されるというのはとても大切で、大事な尊厳であると実感しました。
当たり前のことを見落とさないように
話が少し逸れましたが、どんな知識も技術も相手の気持ちに寄り添えなければ、
単なる押し付けになるリスクがあるということです。
よかれと思って!は、本当に誰にとってよかれなのかを考えることができる
もっている知識・技術を生かすのは、相手との関係があってこそ
を認識している指導者は違うと思います。
そんなこと分かっている、当たり前のことでしょっと思う方多いかもしれません。
でも、テクニックやハウツーが溢れている今の時代、この当たり前のことって案外見落とされていたりするのです。
ヨガのクラスは、あなたの知識や技術をひけらかす場ではありません。
相手のニーズにどれだけ応えられるか、という意味では知識・技術は非常に重要ですが、
相手の気持ちを置き去りにした指導はあり得ないのです。
ましてや障がいがあるからといって、手足を勝手に動かしポーズの形に無理やり持っていくことなどあり得ません。
どのような障がいがあろうと人と人との関わり合いであるという本質、
このことをしっかり理解していることが良い指導者の絶対条件なのだと思うのです。
基礎講座では、この本質についてお伝えして、受講のみなさまと一緒に考えていきます。